【1】フェニックス計画の背景

高度経済成長を続ける一方で、大量生産、大量廃棄にかかわる社会のひずみが生じ、1960年代を中心とした公害問題、1971年から1974年にかけての東京ごみ戦争など、環境に関する社会問題が大きな課題として持ち上がった。1970年のいわゆる公害国会において、各種公害への対策法が整備されたのに加え、ごみに関しても廃棄物処理法が制定され、ごみ処理の責任が明確化されてきた。 ただし、ごみの量については増加を続ける中で、最終処分場の不足が深刻となってきた。一般廃棄物は市町村固有の事務であり、最終処分まで含めた責任を求められるものの、都市化が進み自前で最終処分場をつくることは困難であった。特に、東京圏、関西圏において、その不足は深刻であり、事業者委託により適正に処理されているのかの確認が困難な場合もあった。 そんな中で、海面に巨大な処分場をつくり都市部のごみの最終処分を公共関与で行う計画が持ち上がった。ごみの埋め立てについては当時、厚生省が管轄していた。 また一方で、東京湾、大阪湾の港湾部では、港湾・工業用地が求められており、埋め立てによる土地造成も長く続けられてきた。高度経済成長ほどではないが、高い成長が続いていた時期であり、今後も港湾地域の用地が不足することが予想され、ベイエリアをどう開発していくのかについては、大きな関心ごとであった。ちょうど京阪神地域と阪神地域で埋立事業を行ってきた公団で、埋立業務が完了を迎える時期であり、次の海面埋立の業務を探していた。ごみの最終処分場用地が不足していたことと、港湾域での土地不足の思惑が合致し、海面に巨大な処分場を建設し、跡地利用をするというシナリオができあがっていた。港湾域については運輸省(当時)が管轄しており、1976年から78年ころにかけて、「広域廃棄物埋立護岸整備構想」として計画がもちあがった。厚生省も1977年に「広域最終処分場計画(フェニックス計画)」をたちあげ、当初は対抗していた。のちにこの厚生省と運輸省が協力しあう形で、フェニックス計画が具体化していった。 このほか、大阪湾については瀬戸内環境保全特別措置法の範囲内にあり、海洋汚染などの環境対策については環境庁(当時)もかかわっていた。 こうした状況の中で、海面にごみを埋め立て、土地をつくりあげる計画が、複数の官庁が共同管轄する形で進められることとなった。

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